ホンダのトリビア

ホンダの創始者・本田宗一郎の信念

いまや「世界のHONDA」を知らぬ者はいません。一介の技術者から身を起こし「ホンダ」こと本田技研工業株式会社を世界的企業へと育て上げた創業者・本田宗一郎氏、彼の生涯は職人気質、人間性といった色とりどりのエピソードで語り草となっています。ここでは生誕から世界レースへの挑戦までを辿っていってみましょう。

自動車への憧れ、そして丁稚入り

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世は明治時代、日本中に「西洋に追いつけ追い越せ」といった気風があふれる中の1906年(明治39年)本田宗一郎は生を受けました。家業は鍛冶屋を営んでおり、その職人気質~「作った物には最後まで責任を持つべし」「金のために仕事をするな、良い仕事ができれば後からお金は付いてくる」といった父・儀平のモットーは宗一郎の人格形成にも大きな影響を与えます。
静岡県・現在でいう浜松市にあった小学校に通うことになった宗一郎、授業において機械や実験器具が出てくると目を輝かす一方それ以外は無関心で成績もイマイチ、そんな子供時代だったといいます。初めて見た自動車に夢中になったり、教室を無断欠席で飛び出して航空機ショーを見物に出かけるなど、己のなかに自動車・航空機への熱いあこがれを貯めこみふくらませながら幼少期を過ごします。
1922年(大正11年)高等小学校を卒業した宗一郎は自動車修理工場へと丁稚入りします。はじめは社長子息の子守など雑用ばかりでしたが あこがれの自動車の世界でグングンと技術を身につけます。また自身で初体験となる自動車の運転をしたのもこの当時です。そうして社員内でただ一人だけ、修理工場の「のれん分け」を許されるに至りました。

戦後の焼け跡から「世界のホンダ」萌芽

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時代は大正を過ぎ昭和へと入っていきます。1935年(昭和10年)宗一郎は妻・さちとの結婚、そして自身の会社を設立しエンジン部品の製作に当たりました。事業は順調に拡大されて行きましたが一方で技術的改良の課題が宗一郎の頭を悩ませます。エンジン部品「ピストンリング」づくりにおいて経験だけではクリアできない問題点がある‥‥これを学問的に解決する必要性を痛感した宗一郎は、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、研究に3年間を費やすことになります。
そして日本全土に深い爪あとを残した第二次世界大戦が起こります。宗一郎もまた全てを失い、この時期はアイスキャンディーや酒の製造機械を手がけて過ごしたといいます。
妻が闇市へ買い物へ行く際、自転車に大荷物を満載している様子をみて「自転車にエンジンを付けたら苦労が減らせるだろう」とエンジン付き自転車を発売、この一馬力のエンジン「ホンダA型」は評判を呼びました。そうして1946年(昭和21年)、ついに「世界のホンダ」へと繋がる本田技研工業株式会社が設立されました。宗一郎が39才のときの出来事です。

チャレンジ、挑む事で道が拓ける


本田技研工業株式会社設立の翌年には、のちに宗一郎の「参謀」とも称された人物・藤沢武夫氏が入社します。どちらかと言うと技術一本槍で経営のほうを苦手としていた宗一郎でしたが、藤沢氏の加入はここを補い「経営の天才」としてホンダの財政難を幾度も救うことになりました。この時期にはエンジンのみならず車体全体を一貫で設計したホンダ初のオートバイ「ドリーム号」が発売開始され、大ヒットを飛ばしました。
ホンダは日本の他メーカーに先駆けて世界的レースへと参加したことでも知られます。戦後のキズが癒えない時期にマン島TTレースへと参加宣言し、通産省はじめ業界からは「身分不相応だな」と冷笑されました。しかし宗一郎には確固たる信念があり、とにかく世界の檜舞台に立つことで企業力・技術力の水準アップにつながるとして批判を受け付けませんでした。
その結果か一時期は売り上げ不信を被った時期もありつつ、立ちはだかる世界の壁にどうにか挑もうというチャレンジ精神は結果としてチームの意識向上へ繋がり、やがて日本全体のモーターサイクル業界全体へと広く夢や熱意を伝えることになったのです。「未来に花を咲かそうと思ったら、苦しくても いま種まきしておかなくちゃ」、宗一郎の言葉です。

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